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Vol.30 2005.11.20

↑当然フィクションであり、内容とは全く関係ありません(^^;)


またまた九州へ

 この前(29号)、大分に行ったばかりですが、帰ってくると宮崎カーフェリーからバースデー半額券が届く・・・・会員に入会していましたが、自動的に送って来るものとは思っていなかったので驚き!
 行ったばかりとはいえ半額はおいしすぎますから、行きそびれていた南九州へ行くことに。そこで仕事を切りつめることに・・・・_| ̄|○<日程確保はハードでした
 ほんでもって貝塚出港の宮崎行フェリーに乗船。

 このフェリー航路は去年も乗っていますが、昨年は1隻運航で日向行でした。一時休航した後貝塚−宮崎・二隻体制で再開。この日乗ったのは新に加わったフェニックスエキスプレス。
 「フェニックス・・・・」は元マリンエキスプレス(宮崎カーフェリーへ航路を譲渡し解散した会社)で川崎−宮崎航路に就航していた船。この航路は休航になったのでこちらへ回ってきた。今までこの船には乗る機会がなく、初乗船。

 平日でもあり一般客は少ない。それでも畳敷きの2等雑魚寝船室(まるで旅館の大広間みたいです)は、壁際がほぼ埋ります。
 船内施設はお風呂・レストラン・ゲーゼンなど定番はありますが、かつて川崎−日向・宮崎を約20時間かけて走っていた船にしては簡素すぎる気がした。
  レストランも品数は少なく営業時間も18時〜20時までので翌朝は営業なし。そのせいか展望通路のテーブルでコンビニ弁当やカップ麺で夕食をとるお客が多い(トラックドライバーは専用食堂あり)。イベントホールもあるんですが、使用している形跡はほとんどない。
 かつての川崎航路で使用した南紀の観光案内地図がそのまま残っていたり、川崎航路での地図を急場しのぎに写真を貼って消したり・・・・コンバートまでの期間にもう少し何とかならんかったのか?なんて思ってしまう。
 この航路はトラック輸送がメインで早朝6時宮崎入港のという性格上こんなもんでしょうか? 
 これで特別支障があるものじゃないので、このままでもいいんですけどね。
 ただみやげ物が宮崎のものしかないのは困りものです。関西と結ぶ航路ですから、関西みやげも・・・・貝塚ターミナルには売店がないのでこれは充実を望みたいもんです。

 旅は波も穏やかで平穏無事でした。減る一方のフェリーの中で、数少ない新航路です。とにかくガンガレ!
揺れやすい外洋航路フェリーは、バイクを
車輪止めだけでなく、ロープで固定します
2等船室 畳敷き
     夕食:ライスはは別料金です。野菜サラダを加えると1000円をオーバーする
朝6時入港なので、みんな早々に寝ます





 ※貝塚−宮崎航路は2006年4月末で廃止されました。   

宮崎市・大淀川 橘橋からの朝日



錦江湾をめざし

 朝焼けの宮崎。雨の心配も少し残る中で宮崎自動車道で都城を目指す。遥かに見える霧島の峰は雲にかすんで見えないが、南の空は雲が切れて晴れ間も。

 高速に入ってサービスエリア(SA)かパーキングエリア(PA)で朝食を・・・・と思ったけど、売店・食堂はどこも営業していないので自販機ホットドック&コーヒーで済ます。

  儲かるSA・PAは豪華になる一方で。地方のは閉鎖&自販機化が進んでいる。クルマの少ない高速での営業は厳しいでしょうけど。高速を走っている中で人のいる空間っての心が和んでいいんですよね。無味乾燥な流れにはチョット気が引けます。

 高速を下り都城の市街地をぬけ、都城盆地から錦江湾へと林と丘・田畑が続くおだやかな風景がつづきます。
 ゆるやかにアップダウンを繰り返すR10を進んで鹿児島県へ。やがてまさに九十九折りの急坂を下り始めると、錦江湾(鹿児島湾)が視界にいっぱいに・・・・・
 ちなみに都城からこの一帯は西南戦争の戦場。今はそんな面影はありませんけど。

 途中道を教えてくれたおばさん、どうもメットから長い髪が出てる管理人を女性とまちがえているようでした。いやぁ〜ん!?
朝の宮崎港・フェニックスエキスプレス 川崎航路時代の相方
パソフィクエキスプレスは海外へ売却
福山町・錦江湾と桜島が一望できる

頂に雲をのせた桜島 鹿児島へ向かうフェリーから



桜島を眺めながら

 大隅半島を垂水・桜島へ向け、クルマも少ない海沿いのR220を走行。桜島がいい眺めです。
 道の駅・垂水 湯っ足り館で日本一長いという足湯につかり、しばし目の前に拡がる桜島を眺め休憩。ホントいい眺めです。空気がおいしいです。しかしここは今年の台風14号被害でしばらく休んでいたそうだ。
 ここの少し手前にある赤のれんの森 伊蔵の店を過ぎたあたりから、土埃が目立って工事も増えていく。そして川の両岸には大量の土砂や瓦礫、路肩には岩、壊れた家・・・・台風14号の被害だ。宮崎・鹿児島では甚大な被害が出ている。垂水での生々しい傷跡と復旧に精を出す人を見ると、カメラを向けるのは自然と控えてしまった。

あるブログで
“戦争を続けるブッシュ政権への天罰にカトリーナ、解散総選挙強行の小泉政権へはの天罰に台風14号・・・・14号はカトリーナに比べて勢力小さく被害も少なかったが、小泉首相も小物だからそれ相応か・・・・”
 とかいてました。

どこを見たら“被害も少ない”なんて、
簡単にいえるんだよ!ヽ(`Д´)ノ


 連日災害報道が続いていたというのに・・・・。このブログの主題は小泉首相批判だが、この管理人はどんな感覚で書いたのか? 何よりこの台風で被害にあった方が読んだらどんな気分だろう。
 ブログの主は「理路整然とした事は他に任せ、ここでは世の悪を追求・・・・」って謳っていました。事実をねじ曲げ都合よく批判のネタに利用する事がそうなんだろうか? なんか嫌だなぁ。・・・・被災跡を見てそんな事を思い出したのです。(このブログは非難殺到で閉鎖されました)

 R224は見渡す限り溶岩の桜島を通る。転々とある待避壕!?、これは桜島は今も活発に活動する火山の証。今日は山頂部に雲がかかっており活動は分からないが、かつて大噴火をおこし、今も活動している。待避壕を見るとチョット怖い気も。

 ちなみに錦江湾って巨大なカルデラが2つほど重なってできたものらしい。海になっていなければ阿蘇カルデラを凌ぐほど大さになっていたかも。鹿児島市など湾沿いの街はいわば外輪山の斜面にあるようなもんです。だから街は急な山のが背後に迫ってますし、その上火山灰土壌(シラス)は雨に脆く土石流など水害が起こりやすい。以前にあった鹿児島市の水害は記憶に新しい。そして桜島・・・・

 南国ムードで一見穏やかにイメージされる鹿児島は、災害が身近にある地域。そこに日々暮らす鹿児島県人は大変だけど、・・・・偉大です!

 だからって鹿児島県が常に危険って訳じゃないですよ!無闇に過剰反応する人がいるので・・・・そこは誤解なく
桜島・西郷岩 自然作り出したアート?
有村展望台待避壕 急な噴火に備えて
桜島にあるローソン   国立御公園での
景観重視のため看板が少し違いますねぇ
桜島フェリー ブリッジが前後に
あるので、回頭しなしで航行可能






桜島フェリー  気象庁・桜島


 桜島の噴火

 大正3年(1914年)1月12日10時5分。かつてない大噴火となる火山活動が桜島に起こった。
 桜島山頂付近に東西方向の火口裂ができ、大量の噴石を噴出。山麓の集落に壊滅的な被害を与えた。約1時間後、鹿児島市内に降灰が始まる。噴火は連続し規模が拡大。11時半頃には火山岩を噴出し始め、昼過ぎには桜島全体が噴煙に覆われていった。
 18時頃より激しい地震(M6〜7級)が頻発。鹿児島市街では多くの家屋が倒壊し、夜になっても噴火は激しく続いた。
 さらに火口から大量の溶岩が流出。東側に流れ出た溶岩は大隅半島と桜島との海峡(幅400m・深さ72m)を埋め尽し、当時島であった桜島を陸続きにした。

 この激しい噴火は数日続き2月中旬頃沈静化した。噴火で流出した溶岩は推定約30億トン。噴煙は桜島上空約8000mまで達し、シベリア・カムチャッカ半島でも降灰を記録。黒神地区の埋没鳥居など各地に残る埋没遺跡はこの降灰と溶岩流出によるもの。
 この噴火で焼失・埋没等被災した家屋は約12000戸に及び、降灰は場所時よっては3m近くに達し、甚大な被害が出た為約16000名が桜島から移住せざるを得なくなった。

 その後昭和21年(1946)、東山腹から溶岩を流出する山腹噴火が起き、南東山麓の集落が埋没(昭和噴火)。

 1955年以降の桜島・南岳の山頂火口ではブルカノ式と呼ばれる噴火が頻発。火山灰や火山礫・噴石などを噴出し、爆発による空振による被害も錦江湾一帯で頻発。火山ガスや土石流等の被害も生じている。
 最近は比較的沈静化していたが、また活発化の兆候も。世界でも最も盛んに活動する火山の一つとして、常時観測が続けられていている。山頂火口から2km以内は立入禁止。
鹿児島市街から撮影された噴火の様子
桜島・湯之平展望所




鹿児島で想う

 桜島フェリーに乗って鹿児島へ。

 鹿児島市は活発に活動する桜島のすぐ近くにありながら、約60万人が住んでいる街。この距離でこの規模の街があるのは世界的にも希だとか。さらに平成の大合併で人口は増えている。
 最近の変化は特に大きく、九州新幹線開業で鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)は駅前再開発で若き薩摩の群像が目立たくなった。
 うーん、あんな小さかったっけ・・・・?>(^^;)


 新しい変化の一方で鹿児島には西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、東郷平八郎、五代友厚などの銅像・生誕地や顕彰碑等はしっかり立っています。どれも鹿児島が誇る幕末・維新・明治で活躍した人物。振り向けば銅像、犬も歩けば●▲之碑に当たる・・・・といってもいいぐらいある。
 中でも西郷隆盛像はもっとも有名で数も多くあちこちにある。みやげもの屋には西郷グッズ、観光施設や顕彰施設では西郷関連の展示が多い。
 西郷洞窟横のみやげもの屋ではおばちゃんが「西郷さんの写真がありますから、見てきませんか?」って誘って、ず−−っと誘導してきて、

これが西郷さんが写っている写真ですよ〜

って、見せてくれました
ウ━━(^Д^;)━━ン・・・!
 いや〜それはもう間違い写真だって以前に分かったそうですから・・・・素人考えですが、いくらなんでも幕末・維新の志士、果ては明治天皇まで勢揃いの記念撮影はあり得ないでしょう〜>(^^;A

 これをきっかけにしてなんか買って欲しいのでしょうけどけどね・・・・その熱心さは素晴らしいと思うんですけど。

 西郷隆盛・・・・西郷さん。鹿児島と言えば必ず出てくる有名な人物。
 明治維新の功労者、明治新政府の大改革を断行、初の陸軍大将。その後西南戦争では薩軍大将へ・・・・成した事は知られてはいるが、南州神社に奉られ神格化までされる徹底ぶりは何故だろう・・・・。

 幕末の剣客で西南戦争では最後まで西郷と共に行動した桐野利秋(中村半次郎)との出会いは、西郷さん人気の源を物語っている。

 若い頃の桐野は西郷に教えを乞う為、甘藷(サツマイモ)3本を持って尋ねた。下級武士でて貧しい桐野にとってそれは精一杯の心遣いであった。
 周囲の者は笑った。それを西郷さんは激しく叱りつけたという。大切なのは込められた気持ちであり、甘藷3本だからといって笑うのはもっての外だと・・・・。

 西郷さんに関しては、我が身を省みず敵味方・身分・物の価値を超えて人を想うエピソードが数多く今に伝わっている。鹿児島には古くから精神性を尊ぶ気風があり、西郷さんの精錬潔白で優しい人柄は、鹿児島の精神そのものだと思う。だから愛されてきたのかな。

 古き良き鹿児島は薄れつつあると嘆く声も聞きます。でも桜島が噴火しても新しい建物がいくら増えても、鹿児島は西郷さんをどこかで愛していくんだろう。

 むじゅかしい話はともかく、西南戦争・薩軍幹部の名をメニューにした店があったんだけど、桐野利秋ってどんな料理かな・・・・イモ天?、村田新八・・・・美味なお刺身とか? 辺見十郎太・・・・超激辛チャーハンとか・・・・。想像すると走ると楽しくなる。(;´∀`)<西郷さんはダシ鍋か?
 などど思いながら。ラーメン食って鹿児島を後に〜....(;´∀`)
若き薩摩の群像もかすむ鹿児島中央駅前(旧西鹿児島駅)
(右)西郷隆盛像、(右)大久保利通像 鹿児島といえばこの人たち
あっちこっちに西郷像があります
城山展望台 観光地定番アイテム
南州公園から桜島を望む


 明治10年9月24日 鹿児島

 倒幕・維新で多くの犠牲を払った士族達(旧武士)であったが、西郷隆盛達を中心とする明治新政府の近代国家への改革は士族の特権・誇り・生活基盤を奪う事になり、各地で士族の反乱が相次いだ。特に維新の原動力を担った鹿児島県(旧薩摩藩)では士族の反発が激しく、政府の政策が反映しない状態に陥っていた。そこへ西郷を始めとする有力士族達が、明治6年の政変で辞職し帰郷。反政府機運が高まった。

 西郷達は私学校を設立。反乱を教育で戒め、新しい時代の人材育成を図ろうとした。鹿児島士族は各地の反乱には同調しなかったが、私学校士族が県内の権力を握る方向に進み、旧体制を保持して政府の改革は浸透しなかった。このため政府は警戒を強め様々な強硬姿勢で挑発。ついに激昂した士族達が政府軍弾薬庫を襲撃・・・・。西郷等も押さえることが出来なくなってしまった。
 明治10年(1877)2月15日、西郷隆盛以下の薩軍と協力する九州各地の士族党は、熊本城で政府軍と激突。高瀬(玉名市)・田原坂〜人吉〜宮崎と転戦するも敗走。8月16日延岡・和田越の戦いで敗れた薩軍は薩軍解散令を出した。それでも西郷を慕う士族達は活路を求め、政府軍の包囲を次々突破して九州の山中を逃亡。

 9月1日、政府軍をかわした約400の薩軍士族達は鹿児島へ入り、城下を勢力下に入れた。しかし3日には政府軍が進軍。翌4日には圧されて城山へ後退。政府軍は約5万の兵で完全に包囲した。
薩軍は城山・岩崎谷に本営を置き各所に陣地を置いて立て籠もったが、守る兵は少なく次第に追い詰められてゆく。
 22日、薩軍幹部達は賊の汚名を払う事と西郷助命嘆願に、河野主一郎と山野田一輔を使者に立て23日、政府軍・海軍参軍・川村純義中将に対面する。
 川村は「明日午後4時総攻撃が決まった。西郷が言わんとする事があるならば、本日午後5時迄に来て回答せよ・・・・」と答え河野を拘束。山野田に陸軍参軍・山県有朋中将の書簡を託して岩崎谷へ帰えす。西郷は読むも返事を出すことはなかった。山県の書簡は文面こそ恩人である西郷への思いから穏やかではあったが、内容は自決勧告であった。

 9月24日午前4時、政府軍は総攻撃を開始。僅かな兵しかいない薩軍各陣地は破られ、午前6時頃には岩崎谷や私学校を守る程度になっていった。
 薩軍本営では西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら約40名が整列。岩崎谷に迫る政府軍に向かって谷道を突撃。しかし次々と政府軍の銃撃の前に倒れ、島津応吉久能邸門前(現在南州翁終焉之地碑がある)で西郷が股と腹に被弾し動けなくなっってしまった。西郷は遙かに東に向かって拝礼し(明治天皇へ礼か?)切腹の用意を整え、別府晋介が介錯したと言われている。享年49歳。

 残った者達は保塁に立て籠もって激しく戦い、多くの者が戦死・自刃したが、死を潔しとない者は投降した。
 午前9時頃、陸軍参軍山県有朋・各旅団長ら立ち会いの元で薩軍戦死者の検屍が行われた。西郷達の遺体は鹿児島県令(県知事)・岩村道俊が引き取り、旧浄光明寺(現在の南洲神社鳥居附近)に岩村自ら戦死者の墓碑を書き丁寧に仮埋葬。
 ここに約7ヶ月にわたる西南戦争は終結。同時に明治維新と武士の時代も終焉した

 明治12年(1879)、薩軍戦死者の遺体は仮埋葬墓から現在の南洲墓地(現在の南州神社横)に改葬。
城山・岩崎谷 西郷洞窟 
弾痕が今も残る・・・・私学校跡石垣
南州翁終焉之地碑
南州神社・南州墓地









西郷南州顕彰館


夕方の宮崎港 先に出港して回頭するフェリーひむか。タグボートが応援してます



旅の終わりは大揺れで・・・

  鹿児島を後にし、熊本はあさぎり町のばあちゃんの所(鹿児島から高速で1時間30分ぐらい)へ。何日か泊まって他コンテンツの取で熊本北部や球磨盆地内を回ったあと、宮崎からフェリーで帰ります。

 ばあちゃんところでの話はまた別のコンテンツも含めて順次紹介する予定です。

 乗るのは宮崎カーフェリー・宮崎−大阪南港航路。来た時とはまた別の航路です。ちょうど太平洋沖を台風が通過中で海は波が高く、揺れる予感(((((>w<))))))
 受付では海上が時化ているので入港が1時間程度遅れるかも知れない事。妊婦は乗船をお断りの表示が。とにかく大揺れすることは間違いないらしい。
 先に出港する宮崎−貝塚航路のフェリーひむかも、揺れながら出港してゆく。

 こちらのみやざきエキスプレスも車両積み込みがはじまり乗船。放送で「お風呂は出港までです・・・」という事で慌てて入りします。大揺れで危険なのだろう。そして若干車両の積み込みに手間取って定刻から10分ほど遅れで出港。
「防波堤を出ますと動揺(船の揺れ)が大きくなります・・・・」と注意の放送が流れる。その通り、沖に出ると

ザッパーン!ドド〜ん!

 船体にぶつかる波の音が凄くなる。同時に大きな揺れが・・・立って歩くのが大変になってきます。(((((゚Д゚)))))

 しかし船は揺れても腹は減る。レストランはお弁当の販売と自販機による軽食版売になっていた。昨年乗ったときはバイキングだったのが・・・・これも合理化のひとつだろうか。最近は原油高騰でかなり厳しいフェリー業界ですし。
 量や好みに関係なく一律2000円近く払っていた今までよりは遙かに安いし無駄がない。自販機は24時間営業なので自由もきくし、特に朝食は半額近くまで安くなった(メニューは2種類だけど)。
 普段と変わらない出来たての暖かい食事が無くなるのは寂しい面がある(管理人はそれが好きだった)。丸1日乗っている北海道航路の様な場合は別として、関西−九州航路の様に夜乗ってすぐ寝て翌朝早く下船するフェリーならば、これぐらいの簡素なもので良かったのかもしれない。
 捉え方は人それぞれ。明確な答えはないけれど、どうなっても味気ないものにはなってほしくないと願うだけです。食うことは旅の楽しみの一つだしね。

※現在は夕食のみバイキングに戻っています

 いろんな事を感じ思いながらも、船の大揺れは続き、益々激しくなってゆく。
 波が穏やかなら喫煙所はホタル族で賑わうのですが今日は閑散。みんな寝ころぶばかり。てゆうか揺れてそれしかできんと言うのが実状。この大揺れは大阪湾の手前までつづく・・・・

 フェリーは大阪南港をめざすと共に、旅は終わりに近づいてゆくのでした。

宮崎港 向かいの船はみやざきエキスプレス
夕食はお弁当と軽食。自販機で24時間OK
朝食は和洋の2種類の定食
左:朝食の洋定食 右:夕食の日向膳
同じフェリーに載っていたカスタムバイク






宮崎カーフェリー


ツーリングメモ・・・Φ(._.)_
 この店は九州でよくみかけますね。巨大タコと黄色い看板が目印なんですが、たこ焼きを売ってるから「大阪」っていうネーミングが強烈でもあり・・・・しかし大阪をこの店の外観でイメージされても困るんですけど。しかしめだつなぁこの看板・・・・(^^;)
 看板の蜂來饅頭ってのはあんこなどが入った丸い饅頭です。大判焼・今川焼・太鼓饅頭などいろいろ呼ばれているもの。地域でいろんな呼び方があるんですね。

その地域にある個性コテコテの店があるとついつい寄ってしまいます。そんな旅が好きです
メニューは豊富
二輪具新聞の部屋TOP
風色倶楽部INDEX