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今夜の番組チェック



ログハウス貸別荘「星座」
Vol.27 2004.10.20
なんで台風ターンすんねん!ヽ(`Д´)/

まだイラストが描けるまで回復してまへんので前回の使い回しです。スンマヘン


3日遅れで日向へ
 当て逃げ事故以来のロングツーリングに。まだ症状はありますが回復試しに九州へ。

  ところが沖縄で急に北へターンした台風21号が接近!

 9月28日は欠航。○| ̄|_
 9月29日も欠航。○| ̄|_


 これで大分・熊本北部のツーは、休みの日数上流れました。(T_T)

 ようやく台風の去った9月30日。マリンエキスプレス(現宮崎カーフェリー)の貝塚−日向航路・フェリーひむかは運航再開。
日向・細島港へ入港中のフェリーひむか
 このツーリング、本調子ではないのでカミさんが2ケツで同行です。まだ物忘れなんかが出て、道に迷う事もあり、そんな時などにナビゲートでサポートしてもらいます。
 
 しかしカミさん天下無敵!?の方向音痴なので大丈夫かなぁ・・・(-_-;) と言いつつも時間がきたので、我が家を出発〜! 
 途中の吉牛で牛鉄鍋膳の夕食。これが値段の割に旨いんだなぁ〜!(゚Д゚)<ウマー

 幸い我が家から貝塚フェリー乗場は、R176〜R26〜府道29とほぼ1本道を走り継いでいくので、迷うことなく、19:30ごろたどり着く。

 乗り場の標識はカミさんが発見して教える。普段は何ってこと無いんですが、ときおり瞬間的にどこへ行っているのか思い出せない時があるんです。これが現状の回復レベル、ただ言われれば思い出すので、重症ではないのですが、まだ一人旅は心配だなってこと。

 貝塚港から出るフェリーは隔日の「フェリーひむか」だけ。まさに専用埠頭。広々とした駐車場に窓口と待合い所だけの小さな事務所がポツンとある閑散としたもの。このフェリーだけだからこんなものでしょうか。

 埠頭にいる臆病なワンコ手と遊んでいたら、中高年の団体を乗せた観光バスが現れる・・・・なんか不吉な予感が頭をよぎるのである・・・・((((゚w゚)))))ザクグフゲルググ

 予想は的中。船内は空いてましたが、2等船室でおっさん&おばはんたちは大声でしゃべるわ笑うわ、騒々しいんですな。
 分別盛り年代も集団になると困ったモンです。若いモンの事を言えない大人の縮図がここで見られます。

 ところでこのフェリー、トラックなどの積み残しがあるマリンEXPの大阪−宮崎航路増強のため、今年3月から貝塚−日向−宮崎に開設し、隔日1便航路だったのですが、この日から日向止まり(日向−宮崎は休止)・・・・。いろいろ厳しいみたいです(-_-;)

 乗った船は元れいんぼうべる(13,600t)。九越フェリーで就航していた人気のフェリー。北海道−直江津−博多の長距離を就航していたから船内設備も豪華・・・お風呂も広いぜ! 夜だけ運航の貝塚−日向航路ではもったいないぐらいです。

※宮崎カーフェリー貝塚−日向航路は、休止していましたが、
 2005年6月20日より貝塚−宮崎航路として再開しました。
貝塚港フェリー乗場
自販機は陸と同じ価格でした!
朝の洋定食
日向港・フェリーひむか



日向路を北へ南へ
 爽やかな日向の朝。フェニックス並木と通勤ラッシュの渋滞を抜け、延岡市内に入ります。

 延岡は127年前、日本最大の内戦・西南戦争(西南の役)で戦場となった街。
 延岡の資料はいろいろ下調べしたものの、細かな史跡の位置や地図が揃わなかった。
「街の事は駅に行けば分かるだろう・・・・」という事でJR延岡駅へ。観光協会があって資料を探したが、いまいち西南戦争に関するものはなし。
 ただ駅のトイレ臭がやけに気になって仕方なかったな。(^^;)
 そこで北川町「西郷隆盛宿陣資料館」を目指しながら探して北へ進むことに・・・・。
北川町・西郷隆盛宿陣資料館(旧児玉熊四郎宅)
奥の屋敷に西郷隆盛が滞在した(県指定史跡)。
手前の建物は資料館
 祝子川を越え、樫山町の小高い丘の横を通ると、西南戦争らしきの碑が。
 ここは政府軍参軍・山形有朋中将(参謀総長に相当)が樫山に登って指揮した地とか。対する薩軍も西郷隆盛が和田越に立って指揮を執り、西南戦争最初で最後の両軍総大将が相対しての戦いが繰り広げられています。
 山形有朋は西郷隆盛に大変世話になった事から攻めるに忍びなく、開戦以来力性急な戦いを避けていたとも云われています。恩ある人との殺し合いは将軍さんでも辛かったのでしょう・・・・・。歴史って非情です。

 その後和田越碑を探してウロウロ。和田越交差点をみつけるものの見つからず、和田越TNを抜け北川町へ。

 やがて可愛岳が間近に見えるあたりで西郷さんの絵が載った案内板が・・・・それに従って進むと線路沿いに広い駐車場を構えた「西郷隆盛宿陣資料館」が。

 開館前にも関わらず、受付のおばさんはあっさり入れてくれる。「登山の方・・・・?」って聞かれた事から、ここには可愛岳登山者が立ち寄る事が多いらしい。ここだけを目当てにそれも平日の朝から来る者はめずらすぃ〜みたいです。私ら夫婦ぐらいか? 

  西南戦争と言えば熊本城や田原坂など激戦地跡が注目されがち。
山形有朋中将陣頭指揮の地碑

山形有朋中将
陣頭指揮地の位置
 そららに比べればここは当時からの屋敷が残るぐらいで、特別な展示品や遺跡はないんですが。

 延岡で敗れた西郷隆盛たちは、もはや組織的な行動は無理と判断し、この地で薩軍の解散令を出しています。これはもはや先はないと言うことを意味してます。ある者は逃亡し活路や死地を求め、ある者は政府軍に降伏し恭順。そして自決し果てる者も・・・・
 ここは政府軍の包囲が迫る中、それぞれが最後の選択を強いられた地なのです。有名な戦場跡とはまた違った哀しさ・切なさがあります。

 でも日差しはのどかです。それゆえに、いろんな感情が湧いてきます。
:資料館前 中:当時の弾丸・砲弾
資料館横の明治十年激戦の碑 西郷さんが誘導してます
西郷隆盛宿陣資料館 〜薩軍解散の地・北川町〜
 明治10年2月に始まった西南戦争。田原坂で敗れた薩軍は、木山〜矢部〜人吉〜都城〜宮崎と各地を転戦。しかし政府軍を打ち負かせず、8月14日延岡の北にある熊田(現・北川町)に追いつめられてしまいました。

 8月15日、約3,500の薩軍は和田越を基点に東西の尾根づたいに陣地を構築。西郷隆盛自ら指揮を執り政府軍35,000に挑みました。しかし圧倒的戦力の違いに敗れ熊田へ後退。16日には俵野で薩軍解散令が出され、こに薩軍は壊滅。

 政府軍の包囲が迫る8月17日深夜、西郷に従う鹿児島士族約600の一団は、政府軍突破を図ります。可愛岳を越えた西郷達は18日午前10時頃、政府軍の不意を突いて急襲。多くの物資・武器を奪い、三田井(現・高千穂町)方面へ去って行きました。

 15〜17日と西郷が宿泊した旧児玉熊四郎宅は最後の軍議が開かれた場所で、重要書類や西郷が持っていた当時日本唯一の陸軍大将軍服も焼いたとされています。
 資料館では旧児玉熊四郎宅の保存公開。西南戦争の解説や西郷隆盛が使用した硯や舟形枕などの展示が行われています。
 
明治10年8月17日の最後の軍議を再現。奥の人物が西郷隆盛
  ●西郷隆盛宿陣資料館
   宮崎県東臼杵郡北川町俵野6727
   開館時間:9:00〜17:00
   休 館 日:月曜日・祝祭日の翌日
   年末年始(12月29〜翌年1月3日)

  資料館の位置



 資料館で和田越碑の位置を教えてもらいましたが、その前に近くの道の駅で日向夏ソフトを食べて休憩。後のカミさん対策!?も忘れてはいけません\(゚∀゚)/ウマー!!
「後の人などいない・・・」などと、かわうそ君みたいなことを思っては2ケツツーリングはできまへん。

 来た道を戻る。和田越交差点からそれてR10号旧道の峠道に入る。トンネルが出来る前はここが国道だったのでしょう。しばらく行くと和田越決戦の地碑がひっそりと立っていました。
 今は木が茂って薄暗いですが、西郷隆盛が陣取った当時は見晴らしの良い高台だった事でしょう。木々の合間から黄金色の稲穂が拡がる延岡の平野が見えます。
和田越決戦之碑

和田越決戦碑の位置
 いつも思うのは、歴史の舞台はいつもひっそりとした場所が多い事。ホントは静かなんですな。行われた事とのギャップを感じます。
 和田越に限らず、延岡の西南戦争史跡は整備が大変行き届いてます。これは延岡西南役会の方々が中心になって守っておられるからだそうです。感謝感謝。

南側(延岡市街側)から見た和田越付近。ノンビリした秋の風景です。ここが戦場だったなんて・・・・

 カラリとした日差しの元、2ケツのアルティシアはR10を南へ走っていきます。
 なんとか今日は物忘れはここまでは出ていません。

 延岡・日向は宮崎北部でも1、2の街なので結構車の往来も多くにぎやか。それでも大阪に比べれば穏やかなもので、郊外に出ると日向灘を望んた快適な道が続く。

 耳川の河口の美々津(みみつ)。
 ここは神武天皇が東征の軍団を率いて船出した伝説がのこる地。
 だからでしょうかね、ここを「日本海軍発祥之地」として戦前に碑が立てられています。
 う〜ん、戦前の政策も絡んでいたとはいえ、とこじつけにも見えるんですが、まぁ言えないこともないので、良しとしましょうか・・・(^^;)
↑伝説によると、神武天皇は美々津から東へ
 美々津は海運で栄えてた町で、当時の面影を残す町並みが再整備され往時のムードをのこしています。チョットした小京都!? ちなみに西南戦争の戦場でもあります。

美々津の位置
海軍の碇→




肥薩路を西へ東へ

 美々津からはR10を南下して宮崎で遅めの昼食。冷や汁を食べたかったが店が見つからず、ざるうどんに・・・・・。
 そして道の駅でソフトクリームを食わせ・・・カミさん対策も忘れず。

 夕方熊本は白髪岳の山麓・あさぎり町のばあちゃん家に到着。
 今年米寿88歳の我がばあちゃんですが、元気にゲートボールに励んでおります。そして毒舌も磨きがかかり!?、還暦をすぎた我が子達ををヒヨッ子扱い。(^^;)
 平均寿命をリードする大正の生まれ、混乱の満州から子供5人を連れて生き延びたパワーの持ち主には誰も叶いません! 孫の管理人はヒヨッ子のヒヨッ子扱い(^^;)
多良木町・槻木峠の巣堀トンネル 
ここを小さなバスが平成11年まで通過していた


槻木峠の位置
 2日目は西、球磨盆地内を2ケツでウロウロです。

 まずあさぎり町のとなりの多良木町があるんですが、その奥、宮崎と県境を接する槻木という所に西郷さんが通った場所があるとの事で行ってみました。 
 山が険しい球磨盆地ですが、最近は道路整備も進んでいます。でも幹線道以外は“酷道”が多く槻木への道も林道の様なつずらおりの道をこれでもかと登って巣堀トンネル(のり面工事はしてますが、湧き水が凄い!)で槻木峠を越えます。

 崩壊した路肩や倒木が凄く2人とも目を奪われます。今年の台風被害は球磨盆地も甚大で、あちこちでその爪痕が・・・・。即支障の出る幹線道などは素早く対処できても、それ以外の小道や山中はまだ手が回っていない。
 倒れた大半は杉の木。木材に適していても災害には脆い。倒木の斜面に残るはわずかな広葉樹ばかりの風景がつづく。
 各地の植林に人の手が回らなくなって久しい。これからも嵐のたびに山は荒れていくのでしょうか?

 ようやく峠を下って集落へ。その後も結構走って御大師という地区を抜けたところに立派な橋が・・・・これが新西郷橋という西南戦争と西郷隆盛に由来する橋。

 その昔御大師にあった吊橋を西郷橋と呼んでいて、両岸の大木に藤葛で結んで架けられ長さ30mはあったそうな。
 新西郷橋と名付けられた橋は立派すぎるぐらいコンクリート橋で、県道と対岸の林道を結んでます。

                   新西郷橋の位置
槻木川・照葉の森で有名な綾町へ流れます。
槻木簡易郵便局・集落の金融機関
槻木・カミさんに「遊べ」と要求するワンコ


 3日は東、大口・水俣へ向かいます。人吉から大口へはR267がルートですが、ここに久七峠という難所あるんです。ここに今年トンネルが開通し便利になってました。長さは九州一らしい。(・ω・)ノ∩

 大口も西南戦争の戦場で、政府軍と薩軍が激戦を繰り返しています。
 雷撃隊・熊本隊は4月末に人吉から大口へ進出。水俣・出水から侵攻する政府軍と戦い、人吉の薩軍本営陥落後も6月20日まで大口を守って戦っています。
 その中で激戦地・高熊山へ行くことに。

 高熊山はR267沿いにある山なのですが、登山道は台風で崖崩れ倒木など荒れ放題。やっとこさで着いた山頂に、戦いの碑や慰霊碑が・・・・西南戦争戦場跡にありがちなものですが、ここには127年前当時の塹壕跡、弾痕のある岩が。ということは山頂まで政府軍は攻め上がって来たって証。それを思うと凄い激戦を想像する反面、今はテレビ塔しかなく静か。ここでもギャップに戸惑うばかりです。

 いろいろ見て戻ってくると、軽トラがやって来てまして、カミさんと乗って来た老夫婦が話をていました。
 台風で山がどうなってるか気になって見に来た地元の方で、なんでもこのご主人さんの“おじいさんのおじいさん”は、薩軍に参加し田原坂で戦死されたそうです。

 鹿児島・熊本・宮崎では薩軍参加の子孫と出会うことが時々あります。そして政府軍従軍者の子孫も・・・・同郷それも隣近所で敵味方に別れて戦ったという事がこの3県ではたくさん見られたいいます。
 今の日本では、いえ日本の歴史でもこれほど身近で敵味方に別れた戦いも、そうはなかったでしょう。
久七トンネル大口側入口

久七トンネルの位置
高熊山頂・塹壕跡
弾痕跡のある岩 辺見・池辺奮戦の地碑

高熊山の位置



その後の西郷さんたち・・・
 明治10年8月西郷隆盛の一団は、宮崎の山中を徨っていました。

 8月26日夜、村所(現宮崎県西米良村)を出発した一団は、熊本県境の千本木山を越えて27日槻木の小川内谷に。一団は人吉へ出て再起を図ろうとしましたが、政府軍の守りが厚いことが分かり、小林を目指して槻木川沿いを下り御大師で休息。目的地は鹿児島とほぼ定め・・・・
 彼らに食料はなく皆疲れ切っている時、槻木の村人がもてなしました。西郷さんは涙を流しお礼を述べたと伝わっています。

 西郷さんは御大師の吊橋を渡る時、籠から降りて橋を眺めてから渡り始めたのですが、引き返して無言のまましばらく橋を見つめた後、再び渡り始めて須木・小林方面へ去っていきました。それ以来この吊橋を「西郷橋」と呼ぶようになったと云われています。
 その後西郷橋は無くなりましたが、下流に架けられた橋を「新西郷橋」を呼んでその足跡を今に伝えてます。

 一団は槻木から須木の山中を越え28日午後には小林に出ます。警戒中の政府軍小隊と警察を駆逐し、西郷隆盛は時任為英宅に宿泊。
 小林は旧薩摩藩領で、薩軍に参加した者も大勢おり人々は手厚くもてなしました。
 ちなみに時任家には5月29日、人吉陥落直前に宮崎へ向かう際滞在しています。

 翌29日に一団は小林を出立、政府軍の包囲を突破し9月1日に鹿児島に入り、城山へ立て籠もります。
多良木町・槻木、新西郷橋
小林市・R221沿い、西郷隆盛宿陣の跡地碑
 西郷さんが時任家を去る時、宿泊のお礼として金時計を座布団の下にそっと置いて去っていきました。後で家人が気づき、その人柄に感銘したという話が伝わっています。

 西郷隆盛の伝承には、義理深く誠実でいてどこかユーモラスな人柄の話が残ってます。そこが「南洲翁」「大西郷」と神格化されるほど尊敬される一方で、「西郷さん」と親しみをこめて呼ばれる所以でしょうか。歴史上の大人物で“・・・・さん”と呼ばれる例は数少ないです。

 鹿児島・城山ですべての戦いが終わったのは、9月24日午前9時ごろです。



 古戦場跡ばかり行っている訳でもないので・・・・

 大口からR268の快適な道で水俣市の八代海沿いへ向かいます。
 遠く天草を望む八代海(不知火海)のリアス海岸の海辺にいある湯の児温泉へ。ここの山海荘に洞窟温泉があるというので行ってみました。
 まぁどんな凄い洞窟か?と期待・・・・海を見渡せる露天風呂は良かったです。洞窟風呂に評価はそれそれ見てのお楽しみ・・・・(^^)



湯の児温泉の位置
青い空、湯の児温泉の海岸
 眺め最高!
  露天風呂→
 洞窟の中は見てのお楽しみ!
山海荘・洞窟温泉


 あっという間の4日間。 宮崎港から大阪南港行きフェリーで帰ります。この船の何度も乗っていますが・・・・、
 10月1日このフェリー会社はマリンエキスプレスから、宮崎カーフェリーに分社化して初めての乗船なんですが、でもなーんにも変わってません。っていうかこれからいろいろ変えていくんでしょう。

 到着とほぼ同時に大粒の雨が・・・・運良く濡れずにすみましたが、雨対策中に濡れてしまいました・・・(T_T)

 それでも乗り込み時はほとんどやんでましたし、翌日の大阪でも雨は帰り着くまでやんでました。
 
 この雨運は旅の初めに出てほしかったなぁ〜(´∀`)
小雨の宮崎港・宮崎カーフェリー みやざきエキスプレス
フェリーでの夕食 バイキングです。 朝食もバイキング

 結局、大きな物忘れは貝塚だけでした。細かなものはいくつかありましたが・・・。

 ただ集中力は一時間ぐらいで注意力が散漫になってバッテリーが上がったようになって動けなくなってきます。ただ15分か30分ぐらいイスや長椅子で休めばまた動けます。ただし、休むたびに休憩時間が長くなっていきます。

 まだ時間的にキツキツで動いたり正確な作業の連続はまだ無理なようです。でも事故直後に比べれば雲泥の差の進歩です(当時は歩くこともままならなかったし・・・)。
 ツーリングから戻ってきて状態はよいので、こうやって目的を持って動けば刺激になって良い効果がでるのでしょうね。

ツーリングメモ・・・Φ(._.)_
 ツーリング先での楽しみと言えば食。旅先での食べ物は例えありきたりでも、また違った感じがするもんです。
 むしろ観光地の特別な店でなくても味わえたりします。安くて量もあったして、むしろ特別な店の方が見た目豪華でも型通りで味気ないものだったりします。
 ツーリングに行ってもコンビニ弁当で通すライダーが目立ちます。安くてどこでも同じ様なものが食えるからで選ぶんでしょう。
 いろんな事情はあるけれど、ツーリングに出た時ぐらい、せめて1回ぐらいは旅先のものを味わいたいもんですね。
とあるお店の日替定食ですが、盛りだくさん。鯖の竜田揚げ、貝み
そ汁、鮪と鯛の刺身、ミニ茶碗蒸、もずく、漬物・・・・ご飯おかわり
OK! これで800円しません、


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