[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」



ログハウス貸別荘「星座」
Vol.25 2003.11.03
カリコボーズのいる山里へ


一ツ瀬の支流・小川川




西米良村の地図
    
1500m級の峰が連なる九州山地には、雪深い東国なら冬になると孤絶してしまいそうな奥地でも人里があります。これは温暖な西日本ゆえの事でしょう(それでも九州の山はスキー場が出来るほど雪が積り、冬は厳しいですヨ)。
 高千穂・椎葉・五家荘・五木・米良、etc・・・・有名な落人伝説のある“隠れ里”が九州には山地に沿って南北に続いています。その中で今回行ったのが宮崎・米良(めら)。
 現在の米良は西米良村と西都市の一部に分かれています。   



日向と肥後の接点、米良
 米良へ行くにはいろんなルートがありますが。今回は九州山地の中にぽっかり空いた“へそ”球磨盆地から入ります。
 球磨盆地の湯前から、R219号は市房山系を登って横谷峠を越え西米良村へ。今はトンネルが開通し、道路も整備されてかなり走りやすい道になっていますが、以前のここは難所で、車が登場するまでは馬車と徒歩による往来も大変だったとか。
 トンネル内が熊本と宮崎の県境。そこを抜けると村のイメージキャラクター“カリボーズ”がお出迎え。ここから村所まで下りながら深い渓谷の道をゆく。以前は離合困難な狭い道で大変だったけど、今ではかなり良くなり、2車線部分や谷を渡るバイパス部分も増えています。
カリコボーズがお出迎え。
 椎葉村の奥から流れ出る一ツ瀬川が、南東へターンする位置にあるのが村所。ちょうど米良の幹線・R219とR265が交差する点でもあり、西米良村の中心街。R219沿いはちょっとした銀座通り?で、商店や民宿などが連なっている。飲み屋や酒屋もあって結構賑やかなんです。山また山の中なので余計にそう見えるのかな?
 ここで特徴なのが焼酎の看板。米良ではご当地・宮崎の焼酎だけでなく、お隣・熊本の球磨焼酎の看板も多い。
 九州は地元焼酎の看板が頻繁にあるのが特徴ですが、米良は明治まで隣国の肥後・相良藩の属領だったので、宮崎より熊本との結びつきが強く、この村所は日向と肥後・人吉を結ぶ内陸交通の要所。その名残りでお隣の県の焼酎も昔から入って来ているのでしょう。県境=すべての境ではないって事ですね。

 米良を抜けると一ツ瀬川は次第に水量を増やし、湖面に変化してゆく。昭和34年から38年にかけて一ツ瀬ダムがつくられ、九州最大のダム湖が出来た。当然ながら湖水の底には集落が眠っている。多くの人が先祖伝来の田畑を捨て移転せざるを得なかった。
 一ツ瀬ダムを始め九州山地には巨大ダムが並ぶ。椎葉・市房、そして一ツ瀬・・・・ダムは都会・高度成長日本の電力供給に貢献した。しかしそれは山村の犠牲によって成り立ってきたと言っても間違いはない。
 時代は移って発電は水力から火力・原子力へ比率は移ったが、都会(社会)のツケを地方に背負わせる仕組みは未だ変わっていない。
 むしろ川辺川ダムのように、目的より企業の利権目当に犠牲を強いるのが見え隠れして、タチが悪くなった。
 ・・・・と言いながら、それで整備された恩恵によって道を走る自分では言う権利はないか? ちょっと複雑。
菊池記念館&
歴史民俗資料館
 米良を支配した米良氏は、明治維新後菊池へ復姓。廃藩置県・版籍奉還によって当主・則忠は東京に移住する事になった。その際所領すべてを領民にあたえ、新体下での暮しが成り立つように配慮した。
その後菊池家が困窮した時、旧米良領民たちは恩に報いるため、大正13年に約30ヘクタールの山林。昭和8年には村所に別邸屋敷を建築。すべて奉仕によって寄贈した。昭和31年に別邸は菊池記念館となり、菊池家の恩顧を偲ぶ象徴として保存されています。

 菊池記念館の隣にある歴史民俗資料館は、菊池家所蔵遺品や書簡、焼畑農耕具(国指定重要民俗文化財)が展示。
菊池記念館
   菊池記念館・「別邸」
米良氏についていろいろ


米良の精霊・カリコボーズ カリコボーズ
 米良地方に古くから伝承される精霊です。春の彼岸になると山から川を下り、川を守る水神。秋の彼岸に山の尾根筋を登って山を守る山神となります。
 人間がこの通り道に家を建てたり、森を荒らすと、夜中に家を揺すって驚かすとされています。また森の中で人の声を出したり、音をたてて人を驚かしたりもするとか。
 このため、カリコボーズの通る尾根筋で仕事をする際はお供えをして許しを請います。でも悪い事はしはない、イタズラ小僧のような精霊です。
 西米良村のイメージキャラクターはカリコボーズ。どうか米良の地に“カリコボーズがいられる豊かな自然”を、未来へ残してください。
R219も整備が進みました
MERA


米良の城跡へ・・・・キタ━━\(゚∀゚)/━━!
 いくつかの山を眺めて、いくつかの橋を渡って、越野尾から一ツ瀬の支流・小川川に沿ってさかのぼる。ダムの水面がやがて渓谷に変わってしばらく進むと、小川という集落に出る。
 小川は米良氏の本拠があった所。ここで遅い昼ご飯を(あれば)食べようかと思い、小川城跡公園へいったら、某市長の視察とバッティング。エスコートする偉い人もゾロゾロやってくる。アロハシャツの人もいましたけど、関係者だったのだろうか?

 おかげで「民話の部屋」のおばさんはお茶の支度とかでてんてこ舞い。もうアウトオブお客さん。畳敷きの広間ではエプロンに名札を着けたおばさんがくつろいでいるので、思わず「山菜うどんをください・・・」と、声をかけようとしたが、よ〜く見るとどうも施設の人ではないようだった。う〜ん、紛らわしい(^_^;)

 そこで時間を稼ごうと民俗資料館も行ったら、受付に誰もおらず(応対にかり出された?)、入場券も買えず入れない。
(-_-;)<オイオイ!タダで入っちゃうよ! でもおおらかで、いいなぁ。(^_^)

 ・・・・
そんで某市長さんたち一団は、米良の民話ビデオをさらっと見たら、そそくさと去っていきました。なんか印象に残ったのかな?
 まぁ視察は、キタ━\(゚∀゚)/━! って事が大事で、そこの細かい事なんて二の次なんでしょうかね。(^^;)

 その後落ち着いたら、おばさんも謝りながらお茶をだしてくれて、一緒にいた焼酎のんでご機嫌のおいちゃん(ちょっと話がかみ合わなくて、同じ話題に戻るのには困りまでしたが(^_^;A・・・・)といっしょにいろんな話をしながら、無事山菜うどんは食べることが出来ました。
 まあ、そんなこんなでR219号を一ツ瀬川にそって下り、宮崎港からフェリーで大阪へ戻るのでした。チャンチャン。
小川城址につくられた小川城址公園。城風の建物。
小川城跡公園・民話の里
 現在の西米良村の中心(役場所在地)は村所ですが、江戸中期から明治維新・廃藩置県までの約200年間、小川地区に米良氏の居城(屋敷)があり(嘉永元年12月に焼失)、領内の中心となった所です。
 またこの地域は、米良という名の発祥神話・イワナガ姫伝説。うるし兄弟の民話も伝わる歴史の刻まれた地です。
 米良家の支配が終わった後の城跡は、学校がたてられ、地域の教育の場として活用されましたが平成元年に廃校。
 その後小川城跡公園が整備され、米良家顕彰と民俗資料展示の小川民俗資料館。食事や民話資料の展示と民話を語り聞かせる「西米良民話館」、そして滞在型自炊宿泊施設「民話の宿」があります。
奥・西米良民話館。手前・小川民俗資料館
西米良村のホームページ




ツーリングメモ・・・Φ(._.)_
 九州中部は九州山脈が南北に貫いており、これを越えて東西へ抜けるのが大変だった。その中でもR219は、熊本南部八代・人吉と宮崎方面を結ぶ、古くからの街道をでもあります。
 熊本側の基点は八代。ここからの道はかつて人吉街道と呼ばれ、球磨川に沿って球磨盆地・人吉へ。急流・球磨川に沿って道は曲がりくねり、洪水・土砂崩れにもよくに見舞われ、かつては通行止めが頻発。しかし最近は整備が進み快走路になりました。沿線は比較的民家も多く、GSも大きな集落にはだいたいある。九州自動車道の影響で閉店した店が目立つが、球泉洞(日本第二位の鍾乳洞)付近は観光施設もあって休息ポイントしてちょうどいい。夏は鍾乳洞入口が涼しく、イノシシもいるぞ?! 
 人吉から県境の横谷峠までは、それまでとは対照的に農村と市街地の平坦なを抜けます。横谷峠のトンネルを抜け、宮崎に入ってからR219はかつて米良街道と呼ばれた。ここはまだ未整備な区間、離合困難な箇所もある。それでも以前に比べてかなり走りやすくなった。ただし球磨川沿いに比べGS・お店・集落は村所をのぞけば少なく、ダム湖の区域では人家もほとんど見かけない。また整備された区間と悪い区間の落差もあるので、注意して走行が必要。
 一ツ瀬ダム堤防・杉安峡を抜け一ツ瀬川を渡って西都からは、平坦な市街地と田園風景がR10に合流まで続いていく。フェニクス並木の一ツ瀬有料道路にも続いている。運がよければ新田原の空自基地から離陸する航空機が上空に見えるかもヨ。


R219のマップ

二輪具新聞の部屋TOP
風色倶楽部INDEX